2005年11月13日

私が変われたわけ

Y,S
私は、中学2年生の5月に入塾しました。
初めて塾にきたときいきなり壁に向かって目をつぶり、今までに聞いたこともない音楽を聞きながら勉強やっていて、「何やってんだろう?この人達…」と、少し考えてしまったことを覚えています。

しかし、この「立腰」は、私にとって一番大事なことだったと今思っています。

なぜかというと、小学5年生から通っていた塾は、1対1で、ずっと私が解いているのを見ている状態で、まだ答えを書いていないのに、「そのやり方は間違っている」などと言われ、いつもイライラしていました。だから勉強にも全然集中できないでいて、成績は上がるどころか下がる一方でした。解説@

しかし、秀学舎に入塾してからは、勉強を始める前に立腰するようになってから、集中力が高まり、イライラすることも無くなり、数学や英語の成績が上がったとき、自分の目を疑ってしまうほど、とてもうれしかったです。

私が変われたのも、秀学舎のおかげだと、このことを書いていて、改めて実感しました。今までありがとうございました。

●家族へ
今まで心配ばかりかけて、すいませんでした。「勉強しなさい。」と言われても、ぜんぜんやらなかったことを今では後悔しています。今まで見守ってくれてありがとうございました。

●後に続く人たちへ
私みたいに後悔をしないためには、今から勉強を始めた方がいいと思います。親にも色々と言われると思うけど、親は、心配していて、言ってくれることだから、そのことにつっかからずに、がんばって下さい。解説A

*******************************

解説@
指導者が気をつけるべきことの最も大きなポイントは、どうしたら本人の意欲を引き出すことができるかということです。

この例のように、先回りして手を出しすぎる事、教えすぎる事(過干渉、過保護)は、生徒に不快感(自分の能力を否定された感じ。あなたにはこの問題はできっこないから、先生が教えてやる)と不能感(どうせ私は自分で考えたってできっこないんだ。)を感じさせます。

それが度重なると、それなら自分で考えずに、みんな先生に聞いて、言われた通りやってた方がいいやということになります。

どちらの感情も向上心や意欲を引き出すこととは反対の方向、本人の感情を「自分はだめだ、自分はできない、自分には能力が無い」という無能感、自己否定の方向に追いやる働きをしてしまいます。

同じ間違うにしても、自分で最後までやって出した答えが間違っていたり、あるいは自分のやり方だと途中で詰まってしまって正解が出ないということが納得できれば、自分で質問したり、先生の説明を真剣に聞く姿勢ができるものです。

また、間違っている解答であっても完全にすべての考え方が違っていることは少なく、どこかに正解につなげることのできるヒントがあるものです。

その生徒が考えた内容、知識、レベルを考え、個々の生徒が考えた地点から正解に至る道筋を示すことができると、生徒のやる気を高めることができるものです。

これを指導における中間原点の原理と言います。
指導者がこれを自在にできることが、個別指導の醍醐味につながります。そのためには指導者が、一人一人の生徒の頭の中で起きていることを理解できることが必要です。常に生徒の『頭の中を覗く』ことが必要です。

そのためには指導者の側に常に冷静な判断力が求められます。教師も11/6のコメントにあるような、「中庸」の精神状態が必要なのだとつくづく思います。

一斉指導では個別指導ほど個々に対応することはできません。また、1対1の個別指導であっても時給いくらの学生アルバイトにそれを要求することははじめから無理があります。

個別指導ではこのSさんの例のように、指導者が教えすぎ、先回りをして手を出しすぎて本人の意欲をつぶしてしまったり、あるいは依頼心(人に頼る心)を増長させて、人に指示されたり教えてもらわないと何も出来ない人間を作り出すケースが良く見られます。

「教えれば教えるほど、教えられるのを待つだけの生徒を作ってしまう」このパラドックスは私もかつてイヤというほど経験してきました。
そのジレンマを解決しようとして、SSA学習科学研究会というグループを作り研修を続けてきました。昭和の時代に発足していまだに続いています。

「教えまくったり、その場だけでも暗記させる」教え方が続いているのは、一夜漬けであっても学校の中間・期末テストには何点かプラスになるからです。

しかし、その場はとりあえずやり過ごしたとしても、長期的に見れば、本人の依頼心を強くし、「わからなかったら自分で考えないでテスト前に先生に聞けばいいや」、「普段やらなくても一夜漬けでも何とかなる」というように、本物の意欲や学習能力を奪っていきます。

その結果、少し長い目で見れば成績は下降線をたどるのが普通です。肝心な受験の時には、意欲も学力もまるでなしという人間を作り出す恐れがあります。
家庭教師の場合にも似たようなケースが良くあります。これでは、「我が子のために」と高いお金を出してきた親にとっては踏んだりけったりです。

教育心理学者の藤澤伸介氏(東京大学大学院客員教授)は、このような勉強のさせ方(自分でやらずに先生が教えまくる)を“ごまかし勉強”と呼んでいます。そしてそのような指導を長く受け続けると、以下のような副作用が出ると警告しています。

@学習の目的・意味がわからなくなり、学習(学校)に興味が持てなくなる。
Aただ説明を受けていることが多く、本人の学習能力が伸びない。

B自分が学習しているという喜びがない。
→やらされている感じが続く→高校・大学に行っても、積極的な学習ができない。

C自分の進歩が実感できない。
Dこれらを通じて、これからの人生で最も大切な、自己に対する有能感(自分は頑張ることが出来る。頑張ればたいていのことはできる。努力は大切だ)が育たない。

Dで大切と言われている有能感の裏返しが不能感(この文章の最初の方で説明してあります)ですから、成長期の子供にとっての学習の仕方は、とても大切なことだといえます。

成長期の子どもには無限の可能性があります。やる気さえ高めることができれば、その時点での生徒個々の能力の差はあまり問題ではありません。意欲さえ高めることができれば、かなり低いレベルの生徒でも引き上げることが可能です。

この卒業文集では何人かの生徒が、中学3年の2学期に自己最高点をとったと書いています。文に書かなかった生徒も含めると、3年生になってからの成績が一番良かったという生徒の割合は7割を超えています。これは私達の誇りでもあります。

私達は教育を、知識の伝達、切り売りとは考えていません。
教育とは、学習者の自己変革であり、教師はその援助者であると考えています。

「意欲をどう引き出すか」指導者はそのことにもっともっと研鑚をつむべきです。もちろん私自身の課題でもありますし、自戒とするところでもあります。

解説A
この通りですが、親の側にも子どもの意欲をそがない対応が必要であることは、一言述べておきます。

一人一人の生徒は無限の可能性を持っています。その可能性を花開かせることができるか、できないか。教師よりも誰よりもそのカギを握っているのは、最も身近にいて、最も長い付き合いの親と言えます。

当塾に入って学習面の心配がなくなり、それによって親子関係が良くなったと言われる方もいますが、あくまで基本はご家庭での親子関係です。親子間の感情のコミュニケーションがうまくいっていることが、子どもの精神の安定のおおもとです。

親子関係のことに関しては、もう少し具体的に取り上げたいと思いますが、子どもの心の安心なしには、学習への集中はなかなか起こりません。「途切れのない想いが、いつか子どもを変える。」のです。


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posted by 日々 学 at 00:19| Comment(4) | TrackBack(0) | 卒業作文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 藤澤伸介教授の話はもっともですね。
 教師がいくらたくみに教えたとしても、生徒が聞いていなくては、学習になりません。なぜなら、学習は本人の内部が変わることですから。知識なら、それが本人の内部の神経の組織として固定されなれば、「覚えたこと」になりませんね。それを受け入れるかどうかは、個々の欲求や情動のあり方しだいですね。この生徒にこう働きかければ、その生徒の内部がどう反応しどのような変容を引き起こすか、それが生きて全体性を持った「個」の指導であり、それと切り離されて「知識」が存在するわけではないのですから。
Posted by hsata at 2005年11月13日 10:55
実は私も最初は、「教師がたくみに教える、教師がスターになる授業」を目指していました。「学校の先生より面白くてよくわかる」と言われるのが何よりの快感だったのです。「俺に教わってわからない生徒はいない」というのが自慢でした。
勉強ができないために不要のコンプレックスを感じたり、ダメージを抱いている生徒にはある程度の効果があったとは思いますが、長い目で見れば記事に書いた通りです。
教師の「易しくわかりやすく教える」努力だけでは、限界があります。限界だけではなく弊害も感じています。
近い将来、確実に彼らに訪れるであろう社会の厳しい規律、矛盾、葛藤…。
それらに適応できる判断力と意思力を身につけさせること。自分の行動様式を変えていける自己を作り出せるようにすること。これをお題目でなく、日々の学習指導を通して引き出していけたらと思います。
Posted by 日々 学 at 2005年11月13日 17:10
久しぶりに森信三先生の先生の写真を見せてもらいました。
立腰道を提唱されているということを知って二十年近くになりますね。
心を立てんとすれば、まず身を立てるべし。
立腰は自己のわがままを断ち切る姿勢行動ある。
立腰は自己に気が付く姿勢行動である。
立腰は厳しい環境を克服する姿勢行動である。
常に自分の立腰を省みています。
Posted by tokigen at 2005年11月14日 16:23
tokigen先生へ

* 逆境は神の恩寵的試練なり

* 一眼は遠く歴史の彼方を、一眼は却下の実践へ

* 現実を変革するもののみ真理であり、
真理は感動によってのみ授受される

* 教育は流れに文字を書くような果ない業である、
だがそれを巌壁に刻みような真剣さで取り組まねばならぬ

* 人間が謙虚になるための、手近な、そして着実な道は、まず足下の紙くずを拾うことから
         (森信三先生の語録抄から)

tokigen先生と同じ年代ですが、その年齢のゆえでしょうか。上のような言葉を読むたび、心にシミわたるものがありますね。
同じ道を志す者として、これからもよろしくご指導お願いします。
Posted by 日々 学 at 2005年11月14日 17:07
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